システムと中身

良い状態を作りやすくするために構造を作った

 

構造に気を取られ中身が薄くなった

 

良い状態ではなくなった

こういうことはよくあるのではないだろうか

 

良い時と悪い時

 

絶えず変化する波を的確にとらえるサーファーになりたい

 

ぶくぶく溺れてます

 

 

 

 

 

 

 

心の断捨離

私は恵まれた環境で過ごしてきたので、人間関係も複雑に広がっている

 

からしたら優劣はなく、どの人も尊い

 

しかし、人生色々なことがあるもので、困難にぶつかった時、その実態がわかる時がくる

 

この人は、わりと簡単に私の元を去るんだな とか

この人は、周りに流されずブレないな とか

この人は、付き合ってくれるんだな とか

 

主体的にはできない分、心の中で人間関係の整理を迫られる日はくる

 

これは私にとって大収穫で、このような出来事がなければわからなかったこと

そしてそれぞれが良い悪いではなく、そういうものだということを学べたということ

 

さて、ここからどうするかで自分の器の拡大も縮小もありえるのだと、肝に銘じたい

「頑張る」ではなく「がんばる」

頑張ってね

頑張ってるね

頑張ります

 

私はこの頑張るという言葉を1日に本当にたくさん使います。

 

でも、これを言われて、「もう頑張ってるのに」と思う人もいるかもしれません。

良くも悪くも、少し、圧が強い言葉です。

 

この言葉が漢字で「頑なに張る」と書きます。

頑なとは、他者を顧みずに自分の意見を通すこと。

 

でも、これだとずっとは続きませんね。

張り続けていたら破れたり、折れたり、ちぎれたりしそう。

 

他者を顧みないことは、良い時もあれば、自分勝手になり誰かを傷つけてしまうこともあるかもしれません。

 

だから、私は1年ほど前から、「がんばる」に変えました。ただひらがな表記にするだけです。メールでも、ラインでも、頭のなかでも。

 

ひらがなのように、丸く、しなやかに、柔軟に、がんばる。

丸ければ誰かに当たっても傷つけない。柔らかければきっと折れない。

 

少し考え方を変えるだけで、しんどくない言葉に変わった気がします。

 

 

 

 

 

 

 

小さな頃嫌だったこと

 

お正月の親戚の集まりの時に、父親がみんなの前で私のことをからかったこと

 

どうも日本人て、そういう傾向があるように思います。

自分を卑下して相手を立てるのと同じように、自分の身内を卑下して(悪意のない冗談であることがほとんどだとは思いますが)場を盛り上げよう、相手を楽しませようとする。

 

でも、子供の頃はとても傷ついたし、恥ずかしかったです。

今ならその言葉の軽さを理解したり、滲み出る愛情を察知したり、こっちも言い返してやるくらいの余裕はあります。少し、耐性がついたみたいです。

 

でも辛かったということは覚えています。あの頃の自分を忘れたくない。きっと、そう思う子供は他にもいるのだから。

 

だから私は、自分の身内のことをとっても褒められる人になりたいです。

他人から親バカとか家族バカとか言われてもいいです。

 

その人への感謝や尊敬を言葉にするということが、私には必要なのです。

 

 

 

 

 

 

大事にしすぎる

わたしの悪い癖は、大事にしすぎるところ。

 

大切なものは、汚したり無くしたくしたくないから、しまいこんでしまいます。

 

大事な人は嫌われたくないから、常にごめんねを繰り返してしまいます。

 

大切な作品には、妥協したくないから、少しでも気に入らないと前へ進めない。

 

そんな不器用なわたし。

 

これからは、大事なものほど、アクティブに。ぶつけてみよう。いろんなものに。

壊れたら修理しよう。

大切なものと同じ景色を見た方が良い。

 

不器用な自分を、わかって、許して、変えてあげたい。

痛み 悲しみ

痛み という感覚を最近忘れていました

 

しばらく怪我をしていないし、元々丈夫な体なのです。

痛みを知らなければ、痛い演技はできません。痛い人の気持ちもわからない。

痛みを抱えている人にとって自分がいかに羨ましい体であるか、自覚のかけらもなかったことに気づきました。

 

 

胸の痛みはなんだか最近すごくありました。

 

悲しみは、そう簡単にいなくなってくれない。

でもなんだか悲しみにはとてもピュアなものを感じます。理由はわかりません。

 

悲しくなるということは、悪いことではない。苦しいけれど。

悲しいことは、悲しさを知らないこと。

 

 

 

 

 

輝ける場所

隣の芝は青い と言います

 

本来の意味は別として、もしその芝が青いのならば、その芝はそこが相性が良かったのです。

 

その芝を自分の家の土に敷いたところで、青くないかもしれません

でも、自分の家の土には、そこにしかない養分もあるのです。ぴったりな草がどこかにきっとあって、その草は他のどこよりもよく育つでしょう。

 

その人が輝ける場所というのがあります

 

それが自分の近くなのか、それとももっと違うところなのか、それはわかってあげたい。

 

その人がのびのびと過ごせるところが一番いいでしょう。

近くにいなくても、遠くから、お互いの良さを伝え合うことはできるのです。

 

 

ただ自分自身だけは、自分の畑で育てていくものかもしれません。