居るだけでいい

基本的に、人は、生き物は、この世界に居るだけで良いという考えで良いと思うのです。

 

人の役に立たなければいけない、上を目指さなければいけないと誰が決めたのでしょう。

 

私は日本人です。人口減少している日本にとってこの私の一人の数でさえ必要です。

私は消費者になって生産者の役に知らないうちに立っているし、生きて元気にしていることは親にとって幸せなことだろうと思います。学生であれば学費を得られる大事な一生徒です。(親に払っていただいいているとしても)

 

図々しいですね。とても。でも、そう思うんです。

知らないうちに、必要とされると認識できるよりずっと前の段階から、人は何かの役に立っているんです。全ては作用反作用だから。

 

 

だから、誰かが何かしてくれるっていうことは、目がさめるほどに嬉しくてありがたいこと。

 

自分が何かをするときは役に立とうとしなくてもいいけど、そうしたいから、そうするんだ。そう思いたい。

そうしなければいけないからではなく。。。

 

 

人に何かを求めることの方が、図々しいかもしれないのですから。

 

 

 

 

 

 

 

 

きみに読む物語 より

素敵な映画に出会いました。

 

忘れられないシーン。心揺さぶられる。

 

「うまくやるのは難しい 努力が必要だ でも俺は努力したい

ずっときみが欲しいから 一緒に居たいから

お願いだ 将来を思い描いてみて 30年後 40年後 誰と一緒だ?

もしヤツなら 行け!それが君の望みなら 俺は耐えていける

無難に選ぶな 人のことは考えるな」

 

「無難って?どうやっても誰かが傷つくのよ」

 

「人のことは考えるな 俺もヤツも両親も忘れろ 君だよ 問題は

君はどうしたい?」

 

素敵だなあ

今度はこれを英語に戻したいな。

 

ブログを書く理由

なんの面白みもない、貴重な情報もないブログを私がやっているのは、

表現者になりたいからです。頭の中で絶え間なく生まれる言葉を書かずにはいられないから。

 

ここに書くことは、すべて私の本音、うそ偽りのないものです。

匿名であるからこそ、本当のことが言える。

自分の名前を出したら、過剰すぎる自意識のせいで言葉が出て来ません。

 

きっと誰にも読まれないであろうこの文章。

でも、もしかしたら読まれるかもしれない場所に、ひっそりとおいておきたいのです。

誰にも読まれないと決まっているところではなく。

 

私が死んでしまったとして、誰も知らない、誰も読まないブログ。この大きすぎるネットの海の中に、でも確かに、私の本当の言葉が存在する。

 

その小さなワクワク感が、今楽しいのです。

人生を味わう

味わうっていうことをできているかという問いを持ったことがあるでしょうか。

 

これは意識しなければできないです。

 

試食、試飲の時はとても美味しく感じるのに、なぜか買って帰って食べるとそれほどでもなかったということ、私には結構ありました。

 

商品は変わっていないのに。

 

なぜか。

 

それは私自身が、それを注意深く味わおうとしているかしていないか、という違いなのではないかと思うのです。

 

 

 

感じようとする。知ろうとする。すでに知ったものと決めつけずに。

 

食以外でも同じことです。

 

みてる。でも、ちゃんとみているのか。みた気になっているだけではないか。

きく。ちゃんときこえている?音程を、速度を、感じている?

読む。内容を噛み締めている?それによって何か感じた?

 

 

 

私の尊敬する方が、

「パリに行って、空港だけ行って帰ってくるの勿体無いじゃない。行ったことを自慢するだけがしたいなら別だけれど。どうせならいろんなところみて、味わいたいじゃないですか」

とおっしゃってました。

 

本当にそのとおりです。

 

人。その人とちゃんと向き合ってるか。

場所。来たことで完結してない?

 

 

どうせなら、少し時間がかかってもいいから、たっぷり、味わいたいものです。

だってその方が美味しいに決まってる。

 

 

 

課題の分離

自己と他者の課題を線引きし、分離する。

 

目標を達成できるかどうか、努力するかどうかは私の課題。

私をどう評価するかは他者の課題。

 

アドラー心理学の「課題の分離」は、人間関係においてとても役に立つ発想です。

 

 

ただ、自分にとって大切な人であったり、重要な事柄が絡んでいると、知らず知らずのうちにこれを忘れてしまうんです。

 

あー、知っていても、できるわけじゃないんだな。

でもそうありたいと思い続けることはできるかな。

 

一日一命

大したことをしていないのに、会うたびに毎回必ず、

 

「ありがとう」

 

と言ってくれる方がいます。その目と言葉の響きから、心からの言葉だと伝わってきます。私は、その人のおかげで、「あ、今日きてよかった」と思えるのです。

 

言えるでしょうか。毎日顔を合わすたびに心からのありがとう。

これはすごく難しいことだと思います。

言わないにしても、思えるでしょうか。

心からの思いはその人の行動に、表情に、にじみ出ます。

 

言わなくてもわかる、特別な日に改めて思う、が普通なのではないでしょうか。

 

でも、私はこれができるようになりたいのです。

だって本当にその人は魅力的なんです。私もそうなりたい。

 

 

そのために、毎日、新しくなる。ということをしてみようと思います。

忘れてはいけないことは都合よく昨日の自分から引き継いで、それ以外の自分は、昨日で終わり。今日の自分は今朝この形で生まれたと想像する。

毎日新鮮、できたての命。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

愛着


愛着という言葉が好きです。


赤ちゃんと母親の関係の話だったのですが、「信頼」はすぐに消えるが、「愛着」は簡単には無くならないというのを耳にしてから、強くしなやかな絆として自分の中で大切に思ってきました。


愛が着く

自分の愛が付着する、簡単には離れない。



でも、今日は、


愛に執着する


という意味にも思えます。




あなただけ、あなたしかいない、この世界の中で特別な、唯一無二の人。

そう思いたい。そう思ってほしい。



でもそれはたぶん、真実ではなくて願いに近い。自分がいなくても、世界は回る、周りの人は生きていける。それは悲しいことではなくて、素晴らしいことだと思う。


でも、やはりつらい。