クレイジー

人には誰だってどうしようもなくダメ人間な時期があります

 

どうしたってできないこともあります

 

誰だってどこかしら闇を抱えています

 

誰だってクレイジーなところがあります

 

誰だって傷つきやすいし、苦手なことがあって、甘えたい時があります

理想と現実のギャップや、回避できない苦悩に突き落とされることがあります

 

誰だってトイレに行くし

鼻をほじったことも、誤りを犯すこともあります

 

っていうことがわかった上で、その状態の人を、自分を、許せるでしょうか

 

勝手に愛する

私の大好きな「コジコジ」の中で、てるてる坊主のてる子ちゃんが

 

「空を飛ぶ鳥は、空にどう思われているかなんて考えていない。ただ空が好きだから飛んでいるんだ」ということを言っていました。

 

家族を、友人を、恋人を、上司を、後輩を、アイドルを、勝手に愛することは全ての存在に許されていることではないでしょうか。自分の勝手なのですから。

 

「愛し方」には注意が必要ですが。

 

あなたにどう思われていようと、私はあなたを愛している。そう思うことは、できる。そう思うことで、私が幸せになれる。

 

「愛されること」とはまた別の話ですが。

大切な人が

大切な人が辛い思いをしている時、何かしてあげたいなと思います。

 

でも、自分がその人にできることは「何もしない」ということだとしたら。

 

「何かしてあげたい」が「求められたい」という私のエゴでしかない時。

 

そんな時に迷わずにするべきこと(しないべきこと)がわかったらいいのに。

 

 

 

また、大切な人が苦しい思いをしている時、その苦しみを自分が引き受けられたらなと思います。

 

でも、その苦しみは、よくも悪くもその人のものなのですね。

きっと本当の意味で理解することはできないし、まして変わることなどできないのでしょう。

 

宮沢賢治

「何がしあわせかわからないです。本当にどんなに辛いことでも、それが正しい道を進む中の出来事なら、峠の上りも下りもみんな本当の幸せに近づく一足ずつですから」

という言葉があります。

 

その人の苦しみは、その人にとって、どんなに重く険しくても大切なもの。

さて、実際にそんなことが起きた時、そう思う心の安定が私にあるでしょうか。

 

 

 

 

 

 

感謝の押し売り

人の役に立ちたい という言葉はよく耳にしますが、これは私にとって危うい言葉であります。

 

人に何かをして「あげる」ことに喜びを感じるのは、感謝の言葉が欲しいためではいけないと思うからです。

 

前にも書きましたが、人は生きているだけで、役には立っているので。

 

 

この考えにはきっと、もっと素晴らしい反論がいくつも帰ってくると思います。私の中でも明確な答えは出ていません。

 

昔、「感謝の言葉がないわねえ」と怒られたことがあります。

高校生だった私はパニック。

え、感謝は、してるけど、、言わないと怒られちゃうの?それじゃあ、本当に言いたい時と区別がつかないよ。

 

それからその方には絶対に思っててもあんまり思ってなくても丁寧な感謝の言葉をいつも伝えるようにしています。

 

それはそれでいいのかも。

 

でもでもでも

感謝してるでしょ〜

 

というなんだか威圧的なものがあっては、ひねくれ者はまず

「別に」

ってなりますよねえ。

 

あなたの役に立つから、ではなく、あなたの役に立てることが私の喜びだから、ですよね。

でも、役に立ってないと言われたら、どうしますか?自分の存在意義みたいなものはそこで一気に崩れ去ってしまいませんか?

 

私がここにいるのは、私の意思だから。感謝されようと、されまいと、私はそれで満足なのだ。

ではどうだろうか。

 

感謝の言葉は、予期していない、ちょっとした、プレゼントみたいなもの。

 

難しい。

 

 

結論は出ません。

 

 

 

自分の感覚を大切にする

これは私が勝手に師匠にしている方の言葉です。

 

 

自分に自信がない私は、常に自分を否定して来たきらいがあります。

自分と違った人を見ると、ああいうのいいなぁ、ああいう風なのがいいんだろうなってなる。私って変なのかな。とか。

 

 

でも、その人になることは、できないんですね。私は私。

私の五感で世界を紡ぎとって構築していくしかないんだ。

 

自分をもつということ。もっと注意深く。もっと肯定的に。

 

自分を否定された時に、だってこう思うんです、と言えるには、自分と向き合っている必要がありますから。

 

自分の感覚、相手の感覚、どちらも尊重して、良い関係を作りたいです。